第1話 『願いの代償』
「午前2時46分にだけ受信できる謎のラジオ番組。リスナーからの怪談や体験談を放送しているが、その話を聞いた人々に同じ怪異が起こり始める。それが『聴いたらアウト―闇の周波数』だ。」
「それでは、今日の放送を聞いてみましょう。」
カチッ…ザザザ…「午前二時四十六分。周波数0.0。これより『闇の周波数』をお送りします。今夜の投稿は、福島県伊達市在住のコバヤシ・ユウタくんからです。タイトルは『座敷童子の家』。では、お聞きください」
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「こんにちは、コバヤシ・ユウタといいます。僕は小学校5年生です。最近、クラスの友達から座敷わらしの話を聞きました。座敷わらしというのは、家に住み着いて、その家に福をもたらす妖怪だそうです。でも、僕が一番興味を持ったのは、座敷わらしはいつまでも子供のままで、ずっと遊んでいられるということでした。
僕は勉強が嫌いではありませんが、大人になることが少し怖いです。お父さんはいつも仕事で疲れて帰ってきます。お母さんも最近パートを始めて、夜遅くまで働いています。大人って、ずっと働いて、楽しいことをする時間が少ないようです。だから僕は、座敷わらしのようにいつまでも子供のままでいられたら、どんなに素敵だろうと思っていました。
先週の日曜日、僕は福島県の伊達市にある祖父母の家に行きました。祖父母の家は古い日本家屋で、築100年以上経っているそうです。屋根は茅葺きで、廊下を歩くとギシギシと音がします。祖父母は二人とも80歳を超えていますが、元気です。
「ユウタ、都会の子は田舎の遊びを知らないだろうから、つまらないかもしれないけど、精一杯もてなすよ」と祖父が言いました。でも、僕はむしろワクワクしていました。なぜなら、古い家には妖怪が住んでいるかもしれないと思ったからです。特に座敷わらしがいるかもしれないと。
その日の午後、祖父母が昼寝をしている間に、僕はこっそり家の中を探検することにしました。まず、使われていない客間を見て回りました。次に、納戸や物置を覗きました。最後に、梯子を使って屋根裏に上がってみることにしました。
屋根裏は暗くて埃っぽかったです。小さな窓から細い光が差し込んでいました。僕は懐中電灯を持ってきていましたが、その光はあまり役に立ちませんでした。屋根裏には古い箪笥や桐の箱、昔の農具などが置かれていました。
「ここに座敷わらしはいないのかな」と僕は小さな声で言いました。
すると、箪笥の陰から、かすかな笑い声が聞こえてきました。チリンチリンという、小さな鈴の音とともに。
「誰かいるの?」僕は尋ねました。
「ここだよ、ここ」と、小さな声が答えました。
箪笥の陰から、一人の子供が現れました。僕と同じくらいの歳に見えましたが、着物を着ていました。短い髪の毛は前髪が丸く切りそろえられていて、頭の上に赤い鈴を付けていました。その子は僕よりも少し小柄で、肌が透き通るように白く、どこか現実離れした雰囲気がありました。
「僕はマコトだよ。君は?」その子が聞きました。
「ユウタ。コバヤシ・ユウタ」僕は答えました。「君は…座敷わらし?」
マコトは笑いました。「そう呼ぶ人もいるね。僕はこの家に住んでいるんだ。ずっとずっと前から」
僕は興奮して、マコトを質問攻めにしました。何歳なのか、何を食べるのか、どんな遊びが好きなのか。マコトは全ての質問に優しく答えてくれました。彼は本当の年齢は覚えていないけれど、少なくとも100年以上はこの家にいるそうです。食べ物は家の人が神棚に供えるものを少しいただくこともあるけれど、基本的には食べる必要はないとのこと。そして、彼の一番好きな遊びはかくれんぼだそうです。
「ユウタくんは学校に行ってるの?」マコトが尋ねました。
「うん、小学校5年生だよ」僕は答えました。
「学校って楽しいの?」
「うーん、まあまあかな。でも宿題は多いし、テストは緊張するし…」
「僕は学校に行ったことがないんだ」マコトは少し寂しそうに言いました。「でも、ずっとこの家にいるから、一人でも寂しくないよ。だって、家の人たちが僕のことを大切にしてくれるから」
「座敷わらしっていいよね。いつまでも子供のままで、ずっと遊んでいられるなんて」僕は羨ましそうに言いました。「大人になるのって、なんだか怖いんだ。勉強して、仕事して、疲れて…楽しくなさそう」
マコトは黙って僕を見つめていました。彼の目はとても深く、まるで何百年もの時間が詰まっているようでした。
「本当に僕のようになりたい?」マコトが突然尋ねました。「この家から出られなくなっても?家族と離れても?」
「え?でも君には家族がいるじゃない。この家の人たち」
「…」マコトは黙って窓の外を見ました。「そうだね。でも、彼らには僕が見えているわけじゃないんだ。感じることはできても、見ることはできない。話すこともできない」
「それって…寂しくないの?」
「時々、とても寂しいよ」マコトは正直に答えました。「でも、それが僕の運命なんだ」
僕たちはそれから何時間も一緒に遊びました。かくれんぼや、お手玉、昔の遊びをたくさん教えてもらいました。マコトはとても楽しい遊び相手でした。
夕方になって、祖母が僕を呼ぶ声が聞こえました。
「もう行かなきゃ」僕は言いました。「また明日遊べる?」
「もちろん」マコトは笑顔で答えました。「でも、もう一つ聞かせて。本当に僕のように、ずっと子供のままでいたい?大人にならずに、遊び続けたい?」
僕は考えました。マコトは寂しそうにも見えたけれど、それでも彼は自由で、大人の心配事なんて何一つないように見えました。
「うん、本当だよ。座敷わらしいいなあ。ずっと子供のままでいられて、毎日遊んでいられて…うらやましいな」僕は心から言いました。
マコトの表情が変わりました。彼の目が大きく見開き、口元がゆっくりと笑みを形作りました。不思議なことに、その笑顔は少し怖く感じました。
「願いが叶うよ、ユウタくん」マコトはそう言うと、両手を僕の頬に当てました。
その瞬間、体が軽くなるような感覚がしました。まるで、風船のように浮かび上がるような。そして、自分自身が透明になっていくような不思議な感覚。気がつくと、僕はマコトを見下ろしていました。いや、マコトではない。そこには僕自身が立っていました。僕の姿をしたマコトが。
「え?何これ?」僕は混乱しました。自分の声が、風が吹くような音のようになっていました。
「願いを叶えたんだよ、ユウタくん」僕の姿をしたマコトが言いました。「君は座敷わらしになった。そして僕は…君になった」
「え、嘘でしょ?元に戻して!」僕は叫びました。でも、声は風のようにかすかで、誰にも届かないようでした。
「ユウタ!夕食よ!」祖母の声が聞こえました。
「はーい!」僕の姿をしたマコトが元気よく答え、梯子を降りていきました。
僕は慌ててマコトを追いかけましたが、不思議なことに体が思うように動きません。まるで空気のように軽く、でも同時に何かに縛られているような感覚。屋根裏から出ようとすると、見えない壁にぶつかるような感じがしました。
「マコト!戻ってきて!」僕は叫びましたが、誰も聞いてくれませんでした。
その夜、僕は恐怖と混乱の中で過ごしました。家の中を彷徨い、祖父母や「ユウタ」になったマコトの様子を見ていました。祖父母は全く気づいていないようで、マコトと普通に話し、一緒に夕食を食べていました。マコトは完璧に僕のふりをしていました。
翌朝、僕のお父さんとお母さんが車で迎えに来ました。
「よく泊まったね、ユウタ。楽しかった?」お母さんがマコトに尋ねました。
「うん、すっごく楽しかった!」マコトは明るく答えました。「またすぐに来たいな」
「そうだね。でも次は夏休みになるかな」お父さんが言いました。
僕はパニックになりました。このまま、マコトが僕になって、千葉の家に帰ってしまうの?僕はこの家に取り残されてしまうの?
「お父さん!お母さん!僕だよ、ユウタだよ!」僕は必死に叫びましたが、誰も僕の声を聞くことができませんでした。
マコトは振り返り、僕がいる方向を見ました。他の誰にも見えないはずの僕を、彼だけが見ることができるようでした。
彼はニヤリと笑い、小さく手を振りました。それから、僕の両親と一緒に車に乗り込みました。
「さようなら、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。また来るね」マコトは言いました。
車が動き出し、どんどん遠ざかっていきます。僕は追いかけようとしましたが、家の敷地から一歩も出ることができませんでした。まるで透明な鎖で繋がれているかのように。
そして、僕は理解しました。僕は本当に座敷わらしになってしまったんだ。この古い家に永遠に縛られて、いつまでも子供のまま…でも、家族もなく、友達もなく、誰にも見えず、誰とも話せない。
それから数日が経ちました。祖父母には僕の姿が見えないようです。時々、「なんだか冷たい風が吹くね」と言ったり、「誰かいるような気がする」と首をかしげたりするだけです。僕は何度も話しかけましたが、声は届きません。物を動かそうとしても、指が透き通って、触れることができません。
僕はどんどん孤独になっていきました。もう遊ぶことも楽しくありません。ただ一人で、この古い家の中をさまよい歩くだけ。いつまでも子供のままでいられる…それは呪いでした。永遠の孤独の呪い。
今、僕はこの投稿をしています。どうやって?それは秘密です。でも、みなさんに伝えたいことがあります。他人の人生を羨んではいけません。自分の人生を大切にしてください。そして、もし古い家で不思議な子供に会ったら…決して「うらやましい」と言わないでください。その言葉が、あなたの運命を変えてしまうかもしれませんから。
僕は今も、この古い家で一人でいます。窓から外を眺め、自由に歩く人々を見ています。時々、小さな子供たちが庭で遊んでいるのを見ることがあります。でも、彼らには僕の姿は見えません。僕は、永遠に誰にも気づかれない存在になってしまったのです。
そして最も怖いことは…僕はもう人間ではないということ。僕は座敷わらしになってしまった。いつまでも子供のまま、いつまでも遊べる…でも、それは呪いのようなものでした。もう戻れないのです。僕のお父さんとお母さんのところへも、友達のところへも、学校へも…
「もし、このメッセージを聞いている人がいるなら…助けてください。でも、それは無理でしょうね。結局、僕は永遠にここにいるしかないんだから…」
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カチッ…
「以上が、福島県伊達市在住のコバヤシ・ユウタくんからの投稿でした。ご感想やあなた自身の怪談体験がありましたら、当番組まで。では次回の放送でお会いしましょう。さようなら」
ザザザ…
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東京都新宿区。タケウチ・ケンイチは、イヤホンを外した。午前2時52分。彼は思わず背筋がゾクゾクするのを感じた。「座敷わらし…か」彼は小さく呟いた。
ケンイチは32歳のサラリーマンだ。大手IT企業の営業部で働いているが、最近仕事のプレッシャーでストレスが溜まっていた。昇進のためのノルマ、上司からの厳しい指示、同僚との競争…毎日が戦場のようだった。
「休みが欲しい…」彼はベッドに横たわり、天井を見つめながら溜息をついた。翌朝も早起きして満員電車に乗り、長時間の会議に出席し、クライアントを訪問し…考えるだけで疲れた。
不思議なラジオ番組を聴いたことで、頭はすっきりしないまま、ケンイチは眠りについた。
翌朝、いつものように新宿駅に向かう途中、駅前の路地で彼はあるホームレスの男性に気づいた。ダンボールの上に座り、ボロボロのコートを着て、無心に空を見上げている姿。普段なら気にも留めずに通り過ぎるところだが、今日はなぜか足が止まった。
男性は50代くらいに見え、髪は伸び放題で顎には白いひげが生えていた。しかし、その表情は奇妙に穏やかだった。
「何か…自由に見える」ケンイチは思った。「会社に行かなくていい。税金も払わなくていい。誰にも縛られていない…」
男性がふと顔を上げ、ケンイチと目が合った。
「何じろじろ見てんだ?」男性が低い声で言った。
ケンイチは慌てて謝ろうとしたが、何かが彼を押し止めた。昨夜聞いた怪談が頭をよぎる。「座敷わらしになりたい」と言った少年のように、彼も「ホームレスになりたい」と言ったら…いや、そんなはずはない。
「すみません、馬鹿にしているとかじゃなくて」ケンイチは言った。「実は…あなたをうらやましいと思っていただけです」
「うらやましい?」男性は眉をひそめた。
「ええ…あなたは自由じゃないですか。会社に行かなくていいし、上司に怒られることもない。税金の心配もしなくていい。時間が自分のものです。私は毎日、会社と家の往復で、自分の時間なんてほとんどありません」
男性はじっとケンイチを見つめた。その目は深く、底なしの井戸のようだった。
「本当に…俺のようになりたいのか?」男性がゆっくりと尋ねた。
その質問は、昨夜の怪談の中でマコトが少年に尋ねたものと同じだった。ケンイチは急に不安になった。
「いや、そういうわけでは…」
「家も失って、家族とも離れて、社会から見放されても?」男性は続けた。
ケンイチは言葉に詰まった。「いや、そんなつもりで言ったわけじゃ…」
「でも、うらやましいと言った」男性はゆっくりと立ち上がった。
彼は思ったより背が高かった。「その言葉には力があるんだよ…」
男性はケンイチの肩に手を置いた。その手は冷たく、重かった。ケンイチは急に体が軽くなるような奇妙な感覚を覚えた。
「お前のようになりたかった」男性は微笑んだ。その表情が、ケンイチには恐ろしく見えた。
ケンイチは慌てて男性の手を払いのけ、急いでその場を離れた。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が背中を流れた。
「馬鹿な、あんなの単なる偶然だ…」彼は自分に言い聞かせた。
しかし、その日一日、ケンイチは落ち着かなかった。会議中も、クライアントとの商談中も、あのホームレスの男性の目が頭から離れなかった。「本当に俺のようになりたいのか?」という言葉が、耳の中でエコーのように響いていた。
仕事を終え、ケンイチはいつもより早く帰宅することにした。電車に乗り、自分のマンションがある駅に着くと、なぜかとても疲れを感じた。体が重く、歩くのも辛かった。
「風邪かな…」彼は思いながら、マンションに向かって歩き始めた。
しかし、マンションの前に着いたとき、ケンイチは奇妙なことに気がついた。セキュリティカードが見つからない。ポケットを探っても、カバンの中を探っても見つからない。
「しまった、会社に忘れたかな…」
仕方なく、彼はインターホンを押すことにした。自分の部屋番号を押し、誰か応答するのを待った。妻のミキが家にいるはずだ。
「はい、どちら様ですか?」女性の声がインターホンから聞こえた。ミキの声だ。
「俺だよ、ケンイチ。カードを忘れちゃったみたいなんだ」
短い沈黙があった。
「…すみません、どなたですか?」ミキの声が冷たく変わった。
「えっ?ミキ、冗談はやめてくれよ。俺だよ、タ、ケ、ウ、チ・ケ、ン、イ、チ」
「夫なら今、部屋にいますけど…」ミキの声が困惑に満ちていた。
ケンイチは頭がクラクラするのを感じた。そんなはずはない。自分は確かにタケウチ・ケンイチだ。
「ミキ、何言ってるんだ?俺はここにいるぞ!」
その時、マンションのエントランスのドアが開き、中から一人の男性が出てきた。スーツ姿の男性は…ケンイチ自身だった。
「どうしました?」男性―もう一人のケンイチが尋ねた。
ケンイチは言葉を失った。目の前にいるのは間違いなく自分だった。同じ顔、同じ髪型、同じスーツ…
「き、君は…」
「あなたは誰ですか?」もう一人のケンイチが冷たく尋ねた。「どうしてうちの妻に話しかけているんですか?」
「冗談じゃない!俺がケンイチだ!お前は誰だ?」
もう一人のケンイチは携帯電話を取り出した。「警察を呼びますよ」
その瞬間、ケンイチは自分の姿を見下ろした。そして恐怖に凍りついた。彼が着ているのは、ボロボロのコートだった。手は汚れ、爪は伸び放題。
「嘘だ…嘘だ!」
彼は慌てて近くのガラス窓に映る自分の姿を見た。そこに映っていたのは、朝見かけたホームレスの男性の顔だった。
「警察を呼びますよ」もう一人のケンイチ―ホームレスだった男が、彼の姿を借りて言った。「ここから離れてください」
「待ってくれ!お願いだ!俺はタケウチ・ケンイチだ!」彼は叫んだが、もう一人のケンイチは冷たく言った。
「あなたはサイトウという名前ではないですか?駅前でよく見かける…ホームレスの方ですよね?」
「違う!俺はケンイチだ!」
しかし、警備員が近づいてきたのを見て、ケンイチは恐怖に駆られて逃げ出した。心臓が激しく鼓動し、息が荒かった。何が起きているのか理解できなかった。
彼は公園のベンチに座り込み、震える手で自分の顔を触った。それは確かに彼の顔ではなかった。肌は荒れ、頬はこけ、ひげが伸びていた。
「なぜ…どうして…」
そして、朝の出来事が鮮明に蘇った。あのホームレスの男性。「本当に俺のようになりたいのか?」という質問。そして彼自身が言った言葉。「あなたをうらやましいと思っていただけです」
ケンイチは、昨夜聞いたラジオ番組の怪談を思い出した。座敷わらしになってしまった少年の話。「うらやましい」という言葉が、運命を変えてしまうという警告。
「まさか…」
彼はもう一度、自分の姿を確認しようと、近くの店のウィンドウに映る自分を見た。そこには確かに、あのホームレスの姿があった。そして、その後ろで、誰かが笑っているような気がした。
「午前二時四十六分…周波数0.0…」風がその言葉をささやくように感じた。
ケンイチは公園のベンチで一晩を過ごした。財布も、携帯電話も、身分証も、全てなくなっていた。彼はもはやタケウチ・ケンイチではなかった。誰にも信じてもらえない。妻にも、会社の同僚にも、友人にも。
翌朝、彼は再び新宿駅に向かった。そこで、彼は驚くべき光景を目にした。
スーツ姿の自分―かつての彼自身が、颯爽と歩いている。自信に満ちた表情で、高級そうなカバンを持ち、明らかに成功している様子。彼の横には美しい女性―ミキが歩いていた。二人は幸せそうに笑っていた。
ケンイチは叫びたかった。これは不公平だ、これは間違っている、と。しかし、言葉は喉の奥で詰まった。誰も彼の話を信じないだろう。彼はもはや「サイトウ」という名のホームレスになってしまった。過去の人生、アイデンティティ、全てを失ってしまった。
そして彼は、自分の運命を受け入れるしかないことを悟った。「うらやましい」という言葉が、彼の運命を変えてしまったのだ。
今、ケンイチは駅前の路地で座り込んでいる。人々は彼を見ても、単なるホームレスの男性としか見ない。誰も彼が本当は誰なのか知らない。彼は社会から切り離され、孤独の中で生きることを強いられている。
彼が唯一恐れているのは、他の誰かが彼を見て「うらやましい」と思うこと。そして、その恐ろしい輪が続いていくこと…
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深夜、とあるスタジオ。
ラジオの放送を終えた人物が、ヘッドホンを外した。彼―あるいは彼女―の顔は影に隠れていた。
「『願いの代償』…良い話でした」その人物はマイクに向かって囁いた。「人は常に他人の人生を羨みます。しかし、その裏側を知らないまま…」
スタジオの窓から、東京の夜景が見えた。無数の光の中で、人々は今夜も誰かを羨み、誰かに羨まれている。
「皆さんも、『うらやましい』という言葉には気をつけてくださいね」その人物は微笑んだ。「あなたの願いは、思わぬ形で叶うかもしれませんから…」
影の中で、その人物の姿がゆっくりと変わっていく。一人の姿から、別の姿へ。そして、また別の姿へ。まるで、無数の人生を一人で生きているかのように。
「これからも『闇の周波数』をお聴きください。新しい物語と…新しい願いをお待ちしています」
その声は、夜の闇に溶けていった。
【終】
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タナカ・シンヤは、イヤホンを外した。午前2時53分。「なんて恐ろしい話だ…」彼は小さく呟いた。シンヤは28歳の会社員。最近、会社の同僚のマツダが予想外の昇進を果たし、少なからず嫉妬を感じていた。
「あいつの給料、いくらになったんだろう…」シンヤはそんなことを考えながらベッドに横になった。「どうせ俺より良い暮らししてるんだろうな…」
翌日の昼休み、シンヤは社員食堂でマツダを見かけた。マツダは一人で食事をしていた。なぜか彼を見て、昨夜の怪談が頭をよぎった。
「ねえ、マツダ」シンヤは声をかけた。「昇進おめでとう。やっぱり給料も上がったの?」
マツダは少し困ったように笑った。「まあね、少しだけど」
「いいなぁ」シンヤは思わず口にした。「うらやま…」
その瞬間、シンヤは言葉を止めた。昨夜の怪談が脳裏に鮮明に浮かんだ。「うらやましい」という言葉が運命を変えるという警告。
「どうしたの?」マツダが不思議そうに聞いた。
「ああ、いや…」シンヤは言いよどんだ。「責任も増えて大変だろうけど、頑張ってね」
マツダは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。「ありがとう」
その日の帰り道、シンヤは深く考え込んでいた。もし昨夜の怪談が本当だとしたら、「うらやましい」と口にするだけで、相手と入れ替わってしまうかもしれない。そう考えると、周りの誰かを羨む気持ちがすっと消えていった。
他人の人生は表面上だけ見ても分からない。誰にでも見えない苦労や悩みがある。自分の人生に感謝し、与えられた環境で最善を尽くすことが大切なのだと、シンヤは気づいた。
アパートに着くと、シンヤはラジオアプリを削除した。「もう聴くのはやめよう」彼はそう決めた。
しかし、深夜2時46分、シンヤのスマートフォンから、微かな雑音が漏れ始めた…
ザザザ…カチッ…「午前二時四十六分。周波数0.0。これより『闇の周波数』をお送りします…」
【真の終】
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ぜろぜろ、聴いたらアウト
―闇の周波数― 第1巻
第1話


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